鎌倉権五郎の末裔たちの阿弥陀三尊

tenti2007-06-22


                    (阿弥陀三尊の梵字)
鎌倉権五郎景政の名を刻んだ板碑 鎌倉景政源義家の臣として後三年の役(1083〜1087年)に従軍して右目を射られたまま敵を討ち取り、顔を踏んで矢を抜こうとした同僚を怒った事で名を残し鎌倉党の祖となった。 

石巻市北村高寺 高福寺跡 征夷大将軍坂上田村麻呂(758〜811年)創建と伝う。

鎌倉権五郎景政の「鎌倉権五」

「末裔、鎌倉権五郎五代末葉」弘安元年(1278)と刻む。井内石(石巻で産する粘板岩)製、確認高2.18m幅57cm。

鎌倉景政の末裔にあたる長江氏一族の惣領クラスの武士の五七日の追善供養碑である。

近くの新山神社(東松島市矢本大塩)

鎌倉権五郎景政が寛治五年(1091)に桓武天皇の第五女(大宅内親王)を祀るために社殿を造営したと伝える。

こちらの板碑にも阿弥陀三尊を刻む


旧河南・矢本・鳴瀬町一帯は中世には深谷保と呼ばれ、鎌倉景政の末裔を称する長江氏が領したという。
そして新山神社には御霊宮が祀られていたという(『安永風土記』)。鎌倉の御霊神社が思い出される。

境内の姥杉

鳥居に茅の輪が置かれた趣のある神社だった。


近くのお寺にもやはり天蓋と瓔珞に荘厳された阿弥陀三尊の板碑があった。

さらに近くには阿弥陀三尊そのものを刻んだ見事な板碑がある

しかし、線刻が薄く覆い屋にあるためどうしても写真で表現することができなかった(画は説明板より)。

鎌倉景政の孫、義景はその本領から長江と称し、文治五年(1189)に奥州合戦の功により深谷保の地頭職を与えられた。大塩には塩入という地名もあり、現在よりも海が迫っていたと考えられている。先の新山神社などには鎌倉権五郎景政伝説が伝えられる。冒頭の板碑も墓石に転用されており、もとは新山神社付近にあったのかも知れない。神奈川県葉山町長柄には義景一族の墓所があるというから、その板碑の立てられた13世紀後半頃に一族が関東より移住したのではないかと考えられている(大石直正「板碑にみる中世奥羽の世界」『中世奥羽と板碑の世界』)。
本拠地を離れた長江一族はこの土地を開発し、新山神社のあたりで祖 鎌倉景政を「不朽の文」として石に刻んで顕彰し、惣領の極楽往生を祈願したのであろう。
下記のHPによると鎌倉権五郎景政の末裔達は鎌倉時代に相模のほか栃木・美濃・尾張などに分かれた。深谷保のように阿弥陀三尊信仰の流れもそれとともに各地に伝播したのだろうか?

                               (6月9日 新山神社にて)
●長江義景(「戦国時代の城」HPより) 
 http://www.kit.hi-ho.ne.jp/nagae/nagaeyosikage.html
●奥州長江氏(「風雲戦国史」HPより)
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ou_nagae.html
(参考文献)

中世奥羽と板碑の世界 (奥羽史研究叢書 (1))

中世奥羽と板碑の世界 (奥羽史研究叢書 (1))

河南町史 上巻』(2005)