大日堂舞楽─養老礼祭

tenti2009-01-03


     大日靈貴の神こと大日如来

     ダンブリ長者に化身して千三百年


     上津野小豆沢 大里 長嶺 谷内の民 身を潔斎めて

     舞楽を大日靈貴の神に捧ぐ

     五ノ宮の権現
   
     正月二日の神事“ざいどう”

     大日靈貴の社
念願の大日堂舞楽(国指定重要無形民俗文化財)を大日霊貴(オオヒルメムチ)神社(秋田県鹿角市)にて観て参りました。では、ほぼ順をおって、ご紹介いたしましょう。
大日堂舞楽─“ざいどう”
地元の人々は「ざいどう」と呼びます(現在は「祭堂」の字を当てています)。
精進潔斎を続け、元旦の明け方に出発し、堂社に舞を奉じます。

 朝


地域の由緒の堂に権現舞を奉じます。

[
賄宿で藁沓を履き、身支度を整えます。

不浄の者は祭場に入ることはできない(7時半頃)。周りは白い世界。


儀式を終えて、大日霊貴神社(大日堂)に向かいます。

お子さんもおります。ちょっとつらそうです。初デビューなのでしょうか。

寒いですが、美しい銀世界です。

中世の館跡の前を通る能衆 ささらがみえます。

大日堂へ。
サラサラ雪にあうワラグツは温暖化のせいか水っぽい雪はつらそうです。

勢揃いして「修祓の儀」

地蔵舞(権現舞)が神社の入口で始まりました。 雪激し

社前を三回回ります。


ふりしきる雪のなか、堂に向かいます。


 権現の舞

幡笛が響いて!

堂内から ヨンヤラヤー の掛け声 (籾押し)
脱穀の様をあらわしたものと云われている。小豆沢の青年多数によって奉仕される。
 頭に鉢巻、右手中指に五色の紙をつけ、みつか(今の半天に似た上着)を着、黒ズボン、わらじを履き「ヨンヤラヤーエ」の掛け声と「ソリャーンサーエ」の受け声に合わせて舞われる。」(大日堂舞楽保存会HPより)

御上楽

龍神の幡が堂内に突入。

なげられた幡を受け取って挙げられます(「幡上げ」)


花舞 
神子舞、神名手舞と天地の神に礼拝します。
  こどもたちも活躍しています
本 舞

                 曼陀羅降るや 米降るや
大小行事
 散米の儀式。

権現舞
継体天皇の第五皇子、五の宮権現の舞といわれ、1人が獅子頭をかぶり、子供(オッパカラミ)が尾を持ち、笛、太鼓に合わせて舞われる」(※舞の説明は鹿角市HPより 以下同じ)。
五ノ宮岳の隣の八森岳の龍を権現が鎮めたとも。


駒舞
「五の宮皇子の御乗馬の舞といわれ、垂手(しで)笠をかぶり、胸に木製の馬頭をつけ、笛、太鼓の囃子(はやし)で、礼拝、馬替、一人舞、片手舞、仁義、大車、拝礼の7節が舞われる。」

烏遍舞
継体天皇後宮であった吉祥姫を葬る様を舞にしたものといわれ、折(おり)烏帽子(えぼし)に顆(ほう)面(めん)をつけ、大刀を抜き持ち、声明(しょうみょう)を唱えながら、笛、太鼓の囃子(はやし)で六人立、大博士(おおばかせ)
舞(まい)、二人舞の3節が舞われる。」
・「長者は大日神の霊夢により幸福を得たりとて、末広に日の丸の紋用いられたる」『大日堂由来記』

鳥舞
「だんぶり長者飼育の鶏の舞といわれ、子供3人が雄、雌、雛(ひな)の鳥甲(とりかぶと)をつけ、右手に日の丸の扇を持ち、雄は左手に鈴を持って、笛、太鼓の囃子に合わせて舞う。膝切(ひざきり)、耳切、腰切の3節からなる。」

 健気に舞うこどもたちが愛らし

五大尊舞
「谷内の能衆により舞われる著名な舞。だんぶり長者の舞ともいわれ、袴(はかま)、脚絆(きゃはん)、打越(うちこし)をつけ、白梵天(しろぼんてん)と面(大博士は金剛界(こんごうかい)大日、小博士は胎蔵界(たいぞうかい)大日、他は普賢、八幡、文殊、不動の面)をつけ、大刀を貫(ぬ)き持って、大博士は左手に鈴を持ち、太鼓と祭文(さいもん)、板子の囃子に合わせて舞われる。」
大博士(金剛界大日)と小博士(胎蔵界大日)が金の仮面、普賢・八幡・文殊・不動が黒の仮面(『日本の祭りNO.1』等

(左が「小博士」演じる胎蔵界大日如来、右が「大博士」演じる金剛界大日如来 )
大日堂舞楽(増補)』の本田安次氏の「小豆沢大日堂の祭 補遺」によりますと、ヨミコトあるいは声明として「東方降三世夜叉明王 南方軍荼利夜叉明王 西方大威徳夜叉 北方金剛夜叉明王 中央不動明王」と唱えているようである。金剛夜叉明王をたてるのは真言宗といわれる(『岩波仏教辞典』)が、慈覚大師氏円仁が延福寺開基の折に安置したと伝えられる松島五大堂の木造五大明王像(10世紀末〜11世紀初め)の金剛夜叉明王像は天台宗と考えられており、東北地方の特徴なのであろうか。
宮城県文化財保護課HP
http://www.pref.miyagi.jp/bunkazai/siteibunkazai/miyagi-no-bunkazai/03Tyoukoku/kuni/07godai.htm


工匠舞(こうしょうまい)

「大日堂の御神体を刻む様を舞にしたといわれ、バチドウ舞ともいわれる。直垂(ひたたれ)、脚絆(きゃはん)、高立(たかたち)烏帽子(えぼし)に鉢巻をして帯刀し、両手にばちを持ち、笛、太鼓の伴奏で静かに舞われる。」
  自信にあふれた男達の顔が、美し


田楽舞
だんぶり長者が農民を慰めるために舞われた舞とされる。

「綾笠(あやがさ)をかぶり、1人が小鼓を持ち、1人が太鼓をさげ、他の4人が「ささら」を持ち、笛、太鼓の囃子に合わせて、天狗鼓舞、立ササラ舞、大車(おおぐるま)の3節が舞われる。」

    天狗鼓にささらの響き いにしえの記憶 

お神酒で直会  おつかれさまでした
                                         (※舞順序訂正090117)   
大日堂舞楽は今年、ユネスコの世界無形文化遺産に登録予定です。さもありなんです。
このような素晴らしい舞楽を守り伝え、見せていただいた保存会の皆様と来訪者に親切にしていただいだ地元のみなさまに深い感謝を表します。
 『大日堂舞楽』(S55年)によると「天台宗両部神道の堂社とされ」「修正会ので行なわれる延年の舞としての舞楽」とのことであり、同書では熊野神社を第一の末社とすることから、熊野との関わりを推測しています。
また、「大日堂舞楽」は昭和27年に国指定重要文化財になった時からの名称ということでした。

 無形文化遺産登録を契機に来訪される方々が増えると思いますが、神事ということを理解していただき土地の方々の気持を大事にしていただきたいと思います。
大日堂舞楽保存会HP
http://www.ink.or.jp/~hatakei/
鹿角市無形民俗文化財HP
舞の説明は基本的にこちらによりました。
http://www.city.kazuno.akita.jp/kakuka_folder/gakushu/bunkazai/sitei/minzoku_2.jsp
だんぶり長者伝説
元正天皇の時、美濃国の国に醴泉(さけのいずみ)湧き出でて、養老の滝と名づけ、年号を養老元年と改めた頃】
「だんびるとは蜻蛉(とんぼ)のことで、貧しい夫婦が蜻蛉の夢を見て、酒泉を探し当てて長者となった。やがて娘の吉祥姫は天皇の后となり、父母の死後ここに大日堂を建立した。養老年間(717〜724)、行基によって堂宇が再建された際、一緒に下向した楽人が舞楽を伝えたという。」(『白い国の詩』「藝能 大日堂舞楽」)

・ダンブリ長者伝説(美の国秋田ネットHP)
http://www.pref.akita.lg.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1133924581053&SiteID=0
【綱の大幣とサツ(薩)幣・小幡幣】

東西に張った綱の真中に大幣をたて、その左右に薩幣を立てている。

綱の上は「細小幡」(麻小幡・網小幡)というものか。水引という(『大日堂舞楽』)。

 大日堂の後ろには薬師神社のある岳 五ノ宮嶽はその後方か。
五ノ宮嶽の由来は継体天皇とダンブリ長者の娘の吉祥姫との間に生まれた五番目の五の宮がお隠れになった山という伝説によります。五ノ宮嶽の頂上には五ノ宮大権現を祀る五ノ宮神社があります。大日堂再建の時、五ノ宮社を奥院としたと伝えられます。
●五ノ宮皇子伝説
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8871/887152/88715201.htm


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「ざいどう」検索から入られた方⇒「大日堂舞楽─養老礼祭」http://d.hatena.ne.jp/tenti/20090103
大日霊貴神社
「善記2年」(私年号 522年説あり)に、だんぶり長者の建立された(大日示現社とも)と伝える(『大日堂由来記』)。

 オオヒルメの神とは・・宇宙の象徴仏・大日如来と太陽の神・天照大神の習合なのか・・

 旧大日堂は昭和24年に焼失してしまったが、再建された広い堂内には霊気が・・

 篤い信仰に支えられています。

 その日の早朝(六時頃)にも老夫婦がお参りに来ておりました。


14世紀に植えられたと伝わる姥杉。高さ40mもあったとのこと。伐採され株が残る。
寛政2年(1790)に訪れた松浦武四郎が、この杉を「龍燈の杉」と紹介しているのは古称として注目される(『大日堂舞楽』)。
 
鎌倉時代には阿弥陀信仰の波が来たことを示す板碑(三面に阿弥陀三尊)。
この鎌倉後期か南北朝時代に大きなエポックがあるのではないだろうか。

堂内外には 今年の干支 丑 牛・・
牛の守護神でもあるらしい。

境内の駒形神社 五ノ宮皇子のご乗馬を祀る。

伝説(『大日堂舞楽』s55より)
・だんぶりはトンボのこととされているが、どうも大毘盧遮那如来からきてるという説がむしろ納得。
継体天皇(6世紀前半)の后となっただんぶり長者の娘の吉祥姫が大日示現社を建立したという縁起があるが、日本海沿岸に継体天皇に関する伝説が拡がっているようで興味深い。
福井県HPhttp://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kenmin/chiji/aisatu191125kodaisiforamu.html
・そして、養老元年(717年)元正天皇の勅願により行基が養老山喜徳寺として再建。行基とともに下向した楽人が里人に伝えたとされ、大日堂舞楽の創設となるというが、このような伝説を広めたのはどのような集団でいつのことだろうか。
・また、12世紀に至り、奥州藤原秀衡の子、国衡が堂を修復・再建したとの言い伝えもある。
菅江真澄の来訪】
 菅江真澄天明2年(1785)、文化4年(1807)、文政4年(1821)と三度もこの地を訪れ、天明2年に書かれた「けふのせばのの」では三河の養老伝説に似た伝説に驚き、そして、小豆沢のだんびる長者の寺、養老山喜徳寺には運慶の五大尊や「くちたるみかたしろ」(朽ちたる御形代の意か)があるとしており、寺であったこと、長者伝説、五大尊の存在、五の宮御子(ただし現行の伝説と異なり敏達天皇の子)など注目されます。
 なお、寛政2年(1790)に当地を訪れた松浦武四郎も「鹿角縁起」として「敏達天皇の第五ノ宮、守屋大臣の乱に(中略)奥州へ配流し、豊の岳に宮造り」とやや共通する伝承を紹介しており、現行の伝説と異なる点が興味深い。

吉祥姫

継体天皇の后」となりし、だんぶり長者の娘 吉祥姫の墓は大日堂(右端)近くの高台(吉祥院→青い屋根)


姫は雪に隠れ、「吉」の字を見せておりました。姫の墓印の大銀杏は今はありません・・

  陽がうっすら
 このあたりからは、美しい雪の平野が見られます。
・吉祥姫の墓(いわて山歩きHP)
  http://www17.ocn.ne.jp/~kihan/gonomiyadake.html
  雪に埋もれていない御姿
吉祥院HP
 http://www.ink.or.jp/~ikko/
こちらにも乳銀杏があったことに感銘いたしました。

ここは今でも だんぶり長者の里 ですから

    別れの時 奥の院 五ノ宮嶽は青く燃え上がったようにみえました
 雪の中で寒さに耐え続け、衆人の中でフラッシュを浴びつづけた子ども達は、あとを継いでくれるかな
 継いでほしいとおもうこのごろです。

大日堂余禄
 応仁の乱で荒廃したと伝えられ、その後、度重なる火災で焼失した大日堂の歴史を探るのは容易ではありません。秋田県最古の板碑(石製卒塔婆)は鹿角の長牛(だんぶり長者が生まれたとされる地で大日堂が現存)の正安元年(1299)のもの。次がここ小豆沢大日堂と、あの五大尊の出る谷内の正安二年(1300)という(『秋田県の歴史』1897年)のは、やはり鎌倉後期にこの一帯に大きな求心力があっことを裏付けています。さらに「鹿角全科Wiki」という優れた鹿角の歴史・文化情報サイトを見ますと谷内の天照皇御祖神社(旧名「谷内観音堂」)境内の板碑の板碑はキリークで驚くべきことに二条線、頭部三角形の見事な武蔵的な板碑です。小豆沢大日堂のは阿弥陀三尊、長牛のはバンですからこのあたりの板碑の特徴は密教阿弥陀信仰のようです(というよりこの時期の密教の特徴かもしれませんが)。
また、「GLNよりこんにちは」という尽きせぬ泉のように鹿角地域の豊かな情報を集めたHPによりますと隣接する比内町の、その名も独鈷という所等にも大日堂があり、東西30kmほどにわたり、西から独鈷、別所、長牛、小豆沢、田山と五ノ宮岳の南麓をとりまくように大日堂が現存する大日如来信仰の極めて集中するところです。
 「だんぶり長者伝説」を各集落の舞によって構成するという壮大なパフォーマンスを立ち上げ、レールを敷いたのはいつどのような人たちだったのでしょうか。鎌倉後期に一つの画期があったのは確かです。
 大日堂舞楽に関わる伝説のキーワードを試みに挙げてみますと、行基・龍・天照・大日・独鈷なのですが、興味深いことに黒田日出男氏がこれらの言葉をつないで『龍の棲む日本』という本を著しています。

龍の棲む日本 (岩波新書)

龍の棲む日本 (岩波新書)

 これによりますと平安末期から鎌倉時代初期にかけて「行基菩薩御作」の国土図が産み出され、神の化身である龍が国土を囲み巡っていたと考えられており、その推進役が天台僧でもあったようです。この本には東北地方は登場しませんが。東北地方における具体相とそれ以前のようすが知りたいものです。
 それ以前の様子を知る手がかりとしては養老山喜徳寺とその天台宗化や奥州藤原氏錦戸太郎国衡造営の伝承が注目されます。12世紀に奥州藤原氏の保護を受けていた伝承は、現在残る平泉の「延年の舞」を思い出させ興味深いです。中世後期の板碑分布はいっきに男鹿地域や秋田県南部に移るので、奥州藤原氏支配の要所であったことを引き継いで鎌倉時代に石造塔婆造立の波があったと解せるのかも知れません。「GLNよりこんにちは」では、岩木川河口の十三湊まで「大日信仰の道」が伸びていたという夢のある説を紹介しております。
後で知ったのですが、大日堂の北方約10km余の所にある錦木は世阿弥謡曲「錦木」の比定地であり、謡曲には歌枕「錦木」と名産「毛布の細布」が登場するようです。物語の中に、あの五ノ宮岳も登場します。
・錦木塚(ウィキペディア)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E6%9C%A8%E5%A1%9A
 
      (毛越寺 延年の舞「路舞」)
 我国最古の石造五輪塔は大日法身真言を刻んだ平泉中尊寺(天台宗)の五輪塔(1156年)であり、「本地垂迹資料便覧」によりますと小豆沢大日社(堂)の梵字はア、長牛大日社(堂)の梵字はバン、独鈷大日社(堂)の梵字はウーンであり、蘇悉地経に基づくと思われ、円仁などが将来した天台密教の特徴であり興味が尽きません。
 大著『大日堂舞楽』には「五大尊」の舞の「順序書」に「熊野へ」という項があり、その中には「月山羽黒」という言葉がみられ、中世あるいは古代以来の信仰が溶け合っていることが示唆されます。また、千年の伝統を持つ京都醍醐寺の「五大力尊仁王会」の伝統を考えますと古代における密教の都と東北の出先とのネットワークの遺伝子がキセキ的に残っている可能性を想うと、鹿角の人々の時代を超えた伝承のエネルギーの凄さに感動を覚えます。しかも醍醐寺では「五大力尊御影」が、鹿角では「五大尊そのもの」なのですから。能衆は、この日、「神様」とみられており、そのための精進潔斎と不浄の場合の「祟り」等は、まさに「ざいどう」が神事
、神仏の儀式であることを示しています。
五大力尊仁王会 (醍醐寺HP)
http://www.daigoji.or.jp/events/events_detail1.html
 現在のわたしの感想としては、大日堂に関する記録がほとんど焼失した現代、これらの印象を顕彰することは困難です。当地の歴史を知ることのできる方法として、「夢」を確かめる方法としては、境内地の発掘調査が考えられるのかなと思っております(090125追記)。

◎参考文献:『大日堂舞楽(増補)』(発行責任者:安倍洋直)という大著が刊行されています。
・平泉・延年の舞・西王母
http://d.hatena.ne.jp/tenti/20080505

日本人“魂”の起源

日本人“魂”の起源

 アマテラスの原形の一つは西王母・・

 千年余続く秘密
厳しい精進潔斎をへて行なわれる神事「サイドウ」は 魂振り ではなかったか。

・鹿角のお土産・銘酒「吉祥の舞」(祭りの後、駅前の酒屋さんにて)
 おいしかったです 
 能衆とその世界の皆様 誠に有難うございました。 わたしも 魂振り ができました。

                (熊野堂舞楽 龍王の舞)

大日堂舞楽の謎
“あれっ いわゆる「舞楽」と違うんだね”

例えば、東北地方の代表的な舞楽である宮城県名取市の「熊野堂舞楽」は↑こうなのです。
仮面の印象で“こっちの方が似てるね”
というのが奈良県当麻寺の練供養のイメージです。
當麻寺中之坊HP
http://www.taimadera.org/gyoji1.htm
「迎え講」といわれ、平安時代に「二十五菩薩来迎図」がつくられ、これに基づいて演出される模擬的な法会(『岩波仏教辞典』)です。
大日如来天照大神が習合して、やがて平安時代以降に「迎講」のパフォーマンスに変容した可能性はないのでしょうか。「迎講」はかって各地で行なわれたようですし。
順序が逆になりましたが、本田安次氏の「小豆沢大日堂の祭 補遺」(『大日堂舞楽 増補』)によりますと

                 (オオヒルメのまなざし)
五大尊舞の「花コ摘ミ」というほとんど意味不明かつマタラ神げな美しげな歌詞には
(前略)
「ハイイザアーロー こどもラ ン花ツミニ アレサ トーヲ
ドート 何花ツミニ ボタン カラオエ アオイ キクノ花
アーナ ハイネローネロー こどもラ ソテタネニレロ」
オクジョウドハココニ ワレト ネーロ ネーロ
(攻略)
とあり、氏は、書かれた時点では「ジョウド」を「浄土」と解しており
さらに「大小行事」の唱えごとは
  曼陀羅降るや 米降るや
  有屋の浄土の米なれば
  蒔けども蒔けども 尽きもせず

とあり
ここに密教と浄土経的世界との融合がみられるとも想うのです。
そして「花コ摘ミ」は「花摘」で灌仏会(仏生会)の供花を摘むことをさしているようですす。比叡山や東寺の花摘の儀が知られています(『岩波仏教辞典』)。
灌仏会花祭りのことでお釈迦さまの誕生を祝う行事です。
そう
五大尊舞の「天竺震旦の舞」では
「天竺震旦どうフセリ サカムネホトケ トキタモウ
モンモンサラリ クニクニノ ドンサツドンノ ヒャクシュレンゲンノ・・・」
とあり、「サカムネホトケ トキタモウ」は「釈迦牟尼仏説きたもう」なのでしょう。
さまざな時代の芸能が溶け込んだ「ざいどう」ですが
根には仏がおわしました。
これらは
単なる思いつきですが、仮説をもとに可能性を探っていけると面白いですね。
ご感想をお寄せいただくと幸いです。


  未明の闇から
  鼓動のようなリズムの果てしない繰り返し
  ダンブリの記憶と権現さまに見守られた
  雪深い里の人々の耐える力

  金色に光り輝く金剛界胎蔵界大日の神に化身する時

  人々は循環の中に甦る

魂振るや 上津野の里の おおひるめ

北奥古代史から
十和田湖が語る古代北奥の謎
迂闊にも上記の本を最近知りました。「大日堂舞楽」の名は一言も出てこないのですが。
まず、大矢邦宣氏から、天台寺が10世紀には確実に成立し、義江彰夫氏からは天台寺の(推定)大日如来(一般的には菩薩坐像とされています)が鹿角・津軽を中心とする北奥各地に今も点在する大日如来との近似を指摘します(注で独鈷の実物、田山・小豆沢大日堂の仏)。
天台寺(岩手県HP)
http://www.bunka.pref.iwate.jp/rekishi/bunkazai/index.html
そして、斉藤利男氏は10世紀半ばには鹿角・比内・津軽をへて外浜に至る北方交易の道と糠部の奥地に通じる貢馬の道が成立したとの説を紹介し、さらに平賀郡高伯寺に至る糠部の天台寺、鹿角の小豆沢大日堂、比内独鈷の大日堂と奥大道とその支線に沿って「大日(如来)の道」が形成され、それぞれが郡寺であったとする高橋富雄氏説を紹介し、

各郡の南の入口に郡の(政治的・宗教的)支配のためのセンターがあったとします。この郡政所を基点に各種のネットワークが形成され、ついには東西交通軸が南北交通軸を凌駕するのが奥州藤原氏の時代であるとの見取り図を示しています。
このような時代背景を考えると、「大日堂舞楽」の淵源たる大日如来信仰が、10世紀まで遡る可能性があるのではないでしょうか。10〜11世紀の北奥には「防御性集落」跡が北奥各地で発見されたように統合に向かう抗争の時代でした。そして11世紀の前九年・後三年の役にいきつく蝦夷俘囚長安倍氏がしだいに力をつけていく時代、12世紀の奥州藤原氏の時代から近世に至るまでのさまざまな芸能が「大日の神」のイメージを核として創られ伝えられてきたのでしょう。そういった意味でも「大日堂舞楽」の価値はますます高まるものでありましょう。
 近年は、奥州安倍氏は実は中央豪族の安倍(阿倍)氏の末裔説も有力のようです。奥州の安倍氏は「神武天皇に殺された畿内の王長脛彦の兄安日彦」を祖とするが、中央豪族の安倍氏のようにあの四道将軍の一人大彦命の子孫と称しているという伝もあるようだ。そうすると奥州安倍氏が活躍したほぼ同時代の陰陽師の安倍清明に代表される代々の陰陽家も同族となっちゃいますね 思わず「大日堂舞楽」の大小「博士」を思い出してしまいます。7世紀の阿倍比羅夫説も魅力的ですし。阿倍氏大嘗祭の吉志舞を舞うことで知られる古代の大族であり、同族の阿閉氏は『日本書紀』に日神・月神の託宣を得たことが記されています(『国史大辞典』吉川弘文館)。そのような環境から持ち込まれた文化の種か北奥にもまかれたと想像するのも楽しいです。

五の宮伝説の形成─中世史から
東北地方の中世史学の重鎮の入間田宣夫先生の「鹿角四頭と五の宮の物語」を『真澄学第3号』にて見つけました。
鹿角地方に伝わる「五の宮」伝承を菅江真澄が享和3(1803)年の項に五の宮が「みちのくの、けふの郡に左遷し給ふ」と記したことによる。氏は物語り自体の形成過程として、小豆沢大日堂由来伝説→+だんぶり長者伝説→+五の宮伝説との先学の成果をまとめた上で、五の宮に【京侍の子孫】である「鹿角四頭」の「安保・秋元・奈良・成田の侍衆」四氏が随行してきたという部分に着目し、室町時代から戦国時代の東北地方の諸大名社会においては京都文化志向や天皇・公家に対する尊敬の念が高まりそのなかで戦国時代の「鹿角四頭」が京侍の子孫であるという物語りとなったとと結論します。そして、五の宮の配流と五の宮嶽に葬られたことについても東北地方にもいくつもみられる中世の「貴種流離譚」の中に位置付けられるとしてその現代に伝えられた生命力に驚いています。

古代かに蒔かれた種が、時代と人々の志向によって変容しながら、戦国時代には「伝説」の骨格が完成したということになるのでしょうか。
実際はなぜ、この伝説に継体天皇が登場するのか?など、中世あるいは古代に遡ると日本海側の交易や聖など宗教者の活動が秘められており、まだまだ歴史の謎がこの伝説や祭礼に秘められているのだと想います。
いずれにしても、このように古代・中世史学により解明されつつある鹿角の地域史であるが、史学にはあまり登場しない「大日堂舞楽─養老礼祭」自体が、これらの伝説を背景としながら、鹿角の四集落によって、年に一度、小豆沢大日堂において、「大日の神」に捧げる一大パフォーマンスとして幾多の廃絶の危機を乗り越えて演じられてきたことに、鹿角の能衆と支える四集落の地元の皆様に深い尊敬の念を禁じえまん。

享和三年五月三日『秀酒企乃温濤』(すすきのいでゆ)
翁が上祖は陸奥の毛布の人にして、小豆沢の大日如来をもり奉る、阿倍左京のやからたり
養老いにしえは家とみ栄えたりし、かの蜻蛉長者の物語りをし

                         (細川純子・今石みぎわ「秀酒企乃温濤『真澄学2』より)

鹿角市史』から─毛野氏の日の神
肝心の『鹿角市史』を今頃読むことができました。
驚くべきことに市史の筆者は『日本書紀』811年弘仁二年条にでてくる邑良志閉村を鹿角の地に比定し、吉弥候部都留岐という人物を大和朝廷に連なる毛野氏の一族とし(むしろ毛野氏の部の民のようですが)、毛野氏の神を駒形神、日神としております。さらには阿倍氏が6,7世紀から鹿角の地で活動し、大嘗祭で舞われる阿倍氏の吉志舞は大日堂舞楽の烏遍舞に通じるとしております。今までに述べた点と線が一つの物語りとなった壮大な仮説です。(090307)

・吉志舞(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%BF%97%E8%88%9E
駒形神社(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E5%BD%A2%E7%A5%9E%E7%A4%BE

●「大日堂舞楽─養老礼祭」ブログ全体→http://d.hatena.ne.jp/tenti/20090103
◎お薦めの曲
  
 中島みゆき:時代・二隻の舟・誕生・