井内石の旅(南方編)


以前に紹介した石巻の西方30数?、鳴瀬川辺の凄い井内石製の板碑。鳴瀬川と幹線道路の節点か?
左は武蔵地域の影響を受けた阿弥陀三尊種字弘安二年(1279)板碑、右は阿弥陀立像を刻んだ正元二年(1290)板碑。
一帯には40数基の板碑があり、寺院があったのかも知れない。関東武士団の渋谷氏と関わるか?


井内から遥か50数km(直線距離)南西にある仙台市青葉山には高さ3.9mの井内石の巨碑(正安四年1302)が立つ。
碑には梵字カンマーン(不動明王)と「右志者四十余人講衆面々各々所志聖霊往生極楽証大菩提乃至法界衆生平等利益正安四年五月十四日敬白」と刻まれている。伝寂光寺跡。


側面の矢穴はいかだ穴説もある。約4mの石材を50km(直線でも)の距離と標高100m近い地に運び上げる労苦と財力から当時の国府留守所長官留守氏一族の寺説もうなずかざるをえない。
 
(東光寺付近と七北田川)

(東光寺 西平場の大型板碑)


その国府の西端、東光寺にある高さ2.6mの大型板碑(嘉暦二年1327)。梵字バン(金剛界大日如来)と光明真言を刻む。左側の大型板碑は同年、地元産のアルコース砂岩製。

反転させたら光明真言が浮かび上がった。周りから70基以上の井内石製の小型板碑が出土し、特異な碑面構成とあいまって国府都市民のための破地獄惣供養塔説がある。

青葉山北岸の澱不動尊の文永十年(1273 仙台最古)板碑(1.75m)


阿弥陀三尊種字板碑 亡くなった「兵衛太郎滅罪」のため「往生極楽」を願うと刻む。高さ1.75m
偈は「念阿弥陀仏 即念一切仏 所証一心如 无二無差故」
阿弥陀仏を念ずることは即ち一切の仏を念ずることなり。証すところの一心は、二つなくちがいなきがごとくなり】(加藤政久『石仏偈頌辞典』)
荘厳(天蓋・月輪・蓮台)が最高ランクであり、やはり留守氏一族か。

(「末裔、鎌倉権五郎五代末葉」弘安元年(1278) 高2.18m幅57cm。)
先に紹介した鳴瀬川流域の鎌倉権五郎の末裔の碑とは阿弥陀三尊種字と荘厳の点で共通点が多い。
鎌倉時代、関東から移住してきた武士団が阿弥陀三尊による極楽往生信仰を石製塔婆建立とともに持ち込んだのだが、それを可能ならしめたのは石材の産出から流通、そして石工を統括する仏教集団を頂点とした一大プロジェクトの誕生だったのだろうか。