青葉山


          (西道路入口付近から「仙台の母なる丘の連なり」を眺める)

 日差しに惹かれて、久しぶりに東北大学植物園に

 紅葉のあわひは写真でも表現できない美しい空間でした。



   薄き虹を見つけて喜び広瀬川大橋を渡る



                     青葉山


最上古街道

                浄土のよう・・・

古街道近くに立つ鎌倉時代の供養塔「蒙古の碑」
東北大学植物園HP「史跡」
http://www.biology.tohoku.ac.jp/garden/remains.htm
「蒙古の碑」とは
霊場青葉山
 「仙台藩主の居城、仙台城があることで知られる青葉山は川内地区にある高さ3.9mに及ぶ巨大な板碑や「陸奥州主」の銘を含む長大な願文を刻む板碑のなどの分析から隣接する経ヶ峯地区(伊達政宗以下藩主3代の廟がある)を含めて留守氏のような「陸奥国府の関係者だけに開かれた特別な聖地」とされている。そして川内に並ぶ2基の板碑は羽黒社の別当寺である寂光寺の石塔と伝えられるが寂光寺は慶長7年に仙台に移ったとする説と、もともと青葉山山中にあったとする説がある。



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川内
 高さ3.9mの井内石製の板碑には種子カンマーン(不動明王)、紀年銘正安四年(1302)「四十余人講衆面々各々所志聖霊往生極楽証大菩提」とあり、大石直正氏は民衆ではない人々による「念仏講」のようなものとした。また、後者のアルコース砂岩製の板碑はバン・バク・アの特異な三尊碑で紀年銘は弘安十年(1287)、碑文の「禅定比丘陸奥州主」について七海雅人氏は霜月騒動で誅殺された安達泰盛に比定し、伊藤信氏は「勧進□寿妙願主敬白」の「妙」を留守氏の習いとして留守氏の造立とした。とすればこの時の留守氏には反北条氏的性格も窺えることになる。
澱・へくり沢その北西約1.5?の、広瀬川と深い沢によって三角形状に張り出した崖から滑り落ちたとされる澱不動尊板碑は文永10年(1273)銘を持つ初期の井内石製板碑で荘厳を極めた阿弥陀三尊板碑である。伊藤信氏は願文の「兵衛太郎滅罪」の兵衛太郎を留守家広(留守氏三代)の長子とした。当該所は「へくり沢」という地名にも示されるように川と崖が造り出す絶景の地であつたと思われる。

(川内の碑に残る穴は遠く石巻井内から海そして広瀬川を遡ったイカダ穴かも知れない)
 ⇒「井内石板碑の旅」
 http://d.hatena.ne.jp/tenti/20070715
勝地・寺院・霊場
 伊藤信氏は青葉山霊場説について根拠を列挙してはじめて体系的に述べた。澱不動尊板碑・川内の板碑の他、青葉山における応安七年(1374)銘の「車地蔵」(「嚢塵埃捨録」)の存在、千体仏と「碑面に10種の文字を刻んだ石柱」(「茂庭家記録 良元君記録」)大正9年の二の丸跡付近の陥没で仏像を刻んだ岩壁が出現したこと(「伊達家史叢談5」)。(仙台城築城以前に)竜川院、大満寺、寂光寺、長泉寺などの多くの社寺の存在等を挙げ、青葉山とその周辺を「特別な場所(霊場)」とした。 竜川院は元、天台宗藤原秀衡の創建(本尊:五智如来)と伝えられ、二の丸大手門下下馬先にあり、仙台の地名の発祥とされる千体仏(虚空蔵堂とも)を併祀し、前述の「車地蔵」もその境内にあったとされる。また、鏡池山光禅寺(本尊:地蔵尊)は慈覚大師開山伝承を伝え、元、青葉山鏡池(仙台城の大手門内)にあったという。これらは広瀬川とその旧河川跡である池、そそり立つ岩壁が造り出す勝地(「龍川が瀧」「鏡池」等)に置かれた寺院群であり、板碑の特徴から密教色の強い天台浄土教系の一大霊場を形成していたと考えられる。不動明王等の種子は修験、例えば岩切羽黒社の別当寺である覚性院が1189年、名取熊野の羽黒山物響寺が13世紀後半に創建されているように鎌倉期に盛行する仙台平野の修験の活動と関わる可能性もあり、今後の課題である。」(東北中世考古学会HPより)