宮城県登米市豊里町


豊里という素晴らしい名の町は旧北上川のほとりにある(陸前豊里駅下車)。
その名は北上川と迫川にはさまれた不毛の谷地が、北上川の改修(明治44年等)により美田と化したことに因むという(『角川に本地名大辞典 宮城県』による)。
 ・水土里(みどり)ネット(登米市豊里町土地改良区HP)
 http://www1.ocn.ne.jp/~toyosato/
 ・豊里町年表(同HP)
 http://www1.ocn.ne.jp/~toyosato/gaiyou/ryakunen2.htm 

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仙台から電車1010円の旅

                  (周辺の地図)

旧北上川。左手の小森が稲荷神社
もと赤生津村と呼ばれ、一帯の谷地は寛文七年(1667)から開始された登米伊達氏の新田開発により灌漑水路が設けられ、土手が築かれた。農民300戸が移住し、貞享二年(1685)には赤生津新田で足軽が取り立てられ、上町・中町・下町が形成された。伊達騒動(寛文事件)は隣村との谷地境争乱が誘因の一つとなったという。(この項は『宮城県の地名』より)。
 北上川下流部の開発の歴史(北上川分流施設改築事業HP)
http://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/01jimusyo_menu/syu_you_kouji/01bunryuu/2p/index.html

まめから明神 稲荷神社(旧北上川にほぼ直交する)

社伝では天正10年(1582)甲斐の武田勝頼の家臣浅野継之助が村田沼崎経壇山に勧請、後、当地に移る。万治年間(1658−1661年)に和淵村に移住した。その武田家の屋敷跡に赤生津村新田開発の検地を記念として寛文二年(1662)勧請という(『上町町法印神楽』上町町法印神楽保存会 2004)。
(※しかし、『宮城県姓氏家系大辞典』には仙台藩家臣で清和源氏流で六孫王経基の五世の子、武田義光の後裔彦次郎信次(武田信虎(武田信玄の父)の10男という)を祖とする武田家があり、真次の長子の重次が伊達政宗に仕え、次の子である貞信が正保元年1644承応二年1653に登米郡赤生津村と桃生郡和淵村に領地を与えられたとある。)。
武田信虎(ウィキベディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%99%8E

確かに隣地の豊里中学校には武田屋敷跡の標柱が立っている。

長い趣のある参道を神事の行列。


「五穀」を納め、稲荷神社内の神事が始まる。


「神楽奉納」

舞台造り 舞台は本舞台と脇舞台(龍宮殿)から成る。

舞台完成!

天井の大乗飾り(天蓋)。中心の飾りには鏡が入っている。

1時20分 「初矢」から始まる。

演じ手は中学生とのことで、ういういしい。   (アメノミナカヌシノミコト)

岩戸開き

タジカラオノミコト

タジカラオノミコトVSスサノオノミコト

    お隠れになった神様の指が見えますか?
 天照大神現る。

五矢 さわやかな風とともに

スサノオノミコト “牛頭天王とはおのれがことなり” 蘇民将来の故事。

「魔王」 外道や小悪魔にこどもたちが扮して活き活きと。

おばあちゃんと観る。

喝采

境内の舞台と観客席の構図
【上町法印神楽(宮城県指定 民俗文化財 民俗芸能)】
江戸時代中期以降に稲荷神社の別当であった「法印(山伏・修験者)が加持祈祷のの一様式として舞った」のを始まりとしている。登米十法印として神楽組を組織し、「北流古代御神楽」と称していた。浜神楽の系統に属する。現在は氏子の家督が受け継ぐものとして契約講で定められているという(高橋啓一・佐々木直守「上町法印神楽について」2004年)。現在の会員は10数名で老練な指導者のもと、中学・高校生が参加する勢いのある会と感じた。※法印とは近世において密教僧や修験者であり、地域社会のでまつる氏神別当をつとめ、加持祈祷などを用い、災難・現世利益的な宗教活動をしていた(『日本民俗大辞典』吉川弘文館)。

 夜神楽直前のひと時。左手の青いのが楽屋。