故小林清治先生葬儀


小林清治先生のお葬式は、ご逝去を惜しむ人で埋まっていました(福島市たまのや黒岩斎苑15時)。

名著『伊達政宗』(吉川弘文館 1959年)で知られ、伊達氏研究の第一人者とされる小林清治先生は82歳でお亡くなりになるまで質の高い論文を次々とお書かきになりました。2003年には『奥羽仕置と豊臣政権』(吉川弘文館)、『奥羽仕置の構造─破城・刀狩・検地─』の二大著と『戦国の南奥州』(歴史春秋社)を出版。最後のお仕事は、『伊達政宗』(人物叢書)の改訂版とのこと。

伊達政宗 (人物叢書 新装版)

伊達政宗 (人物叢書 新装版)


一人の弔辞の方が突然、参列者を振り向いて、先生は皆さんの中に生きています と述べた。
先生はそのような、まれにみる高潔できさくな方でした。

続いて「中陰法要」
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
 されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
 我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
 さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。
 されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」と
式の最後は蓮如の「白骨の御文」でした。そういえば御遺影の上に阿弥陀の光が見えました。
導師は「人間はいつ死ぬか分からない」ということを清治先生がおっしゃっているのだと解説。
なお、「中陰(ちゅういん)、中有(ちゅうう)とは、仏教で人が死んでからの49日間を指す。死者があの世へ旅立つ期間。四十九日。死者が生と死・陰と陽の狭間に居るため中陰という」(ウィキペディア)。ちなみに初期仏教をかかげるテーラワーダ仏教では認めていないし、ある浄土真宗HPでも本来の釈迦の教えではなく、死者との別れを儀式化したものとの趣旨をのせる。亡くなったばかりの人が思いを伝えるという数多くの伝承と一致すると思っていたのだが...。

死後のことは永遠の謎ですが、先生の思い出と教えの数々が、その人と不肖のわたしの中にあるのは確かです。多くの人々の中で生き続けるのでしょう。いまでも、「〇〇さん、論文書きましたね」と穏やかに話しかけられそうな気がします。 先生有難うございました。

 先生は1943年京都帝国大学文学部史学科に入学。後転学して東北大学文学部卒。1948年、仙台市史編さん員となって第一巻の通史(お一人で一冊まるごと執筆したというからすごいです)や資料編2冊を執筆したのを契機に福島大学へ。会場で配られた「略歴」に1944年土浦海軍航空隊入隊とあった。

                                    (通称「モクレン通り」にて)
 花従梅発幾番春
 白々紅々次第新 
 (『島隠集』)
なぜか、先生からの年賀状が出てきました。福島市内では桜が咲き始めていました。先生は梅がお好きだったのでしょうか。そのような季節に逝った先生のお人柄を感じます。