存在が池田晶子をやめて混沌に戻った時─追悼池田晶子さん

昨日、あの元気な池田晶子さんが46歳の若さで腎臓ガンのため死去(2007年2月23日)されていたと分かりショックだった。わたしにとって哲学の側から「人生いかに生きるべきか」ということを分かりやすく語ってくれた唯一に近い人であった。最近は巷の話題をバッサバッサと斬りまくり、「ちょっとそうかな」と思う所もあったのだが。

最も印象に残った本(数冊読んだだけだが)。
魂論─「魂にとっては生きても死んでも同じだよ」(「Ⅴ魂」より)
「【は実体ではないのだから生まれ変わりは想像できない】一体「何が」生まれ変わっているのか。魂が個人的な自己に表象されているのでなければ、輪廻転生の物語は不可能です。でも魂とは何かということを慎重に問うていくとどうしてもこういう混沌に巻き込まれてゆきますから生まれ変わりからそれを説明することはできません。」
「自己というものを生命の方向に求めて拡大していくなら、必ず全生命を包摂する表象を形成するはずです。(中略)魂というのを、現在の、この-これのことだとするなら、それは「存在」に近いですね。あるいは、宇宙としての関係性そのものだと言っていいかもしれません。(中略)「始原の自然の混沌状態、万物流転の事相」【各民族の神話はその一つの表現といえます】
【魂は人格的なものではなく】「宇宙の働きとか、力とか、作用とか、そういうものに近い」
【巻き込まれつつ物語を見る】「われわれは、この自分の魂の物語という不思議なものを生きています。しかし物語を物語として認める地点が確かにあるわけですから、物語を生きながら、かつその物語に取り込まれず生きるという、そういう構えになっています。」「人生が存在する、存在が存在することの神秘は、いかなる仕方によっても理解することができない」(「私の神秘体験より」)

「人間の精神の逆説がここに生まれるんですが、「疑うからこそ、信じることができる」。疑い続けて、確信を得る。そこで、初めて信じることができるわけです。哲学が宗教と異なるのは、宗教は疑う前に信じることが必要な点です。
つまり哲学すること自体が、より良く生きることなんです。それは手段ではなくて、「そのもの」です。人は「知る」ことによって「かしこく」なるわけだから。せっかくなら、かしこい人間でありたいですよね(笑)。
「かしこい」というのは知識の問題ではありません。勉強して、知識を詰め込むのではなくて、一つの事柄を自分で疑って、吟味して、納得して、確信を持つことが「かしこい」ということではないでしょうか? あえて言えば、人生は、かしこくなる過程。それが良く生きるということ。」
(池田晶子さんの「賢い生き方のススメ」(NTTコムウェア))
http://www.nttcom.co.jp/comzine/no011/wise/index.html
池田晶子さんを「送る」に相応しい言葉は見つからない。せめて「考えることに努めます」という意志か。ちなみに晶子さんはパソコンやブログが大嫌いで有名です。せめて「役に立つブログ」を目指したいもの。